アメリカの大学では学生に奨学金(Scholarship)や賞(Award)を頻繁に出す。規模も内容も様々だが、共通しているのは、選考基準が成績だけではないことだ。リーダーシップ能力や地域への貢献度等、どれだけ積極的に学内外多方面に渡り活躍してきたかが総合的に勘案される。渡米して2年後の2011年の秋、"Diversity Fellowship"という、ニューヨーク州立大学(SUNY)の大学院生、各校舎1名に贈られる奨学金に応募することになった。これは、自分が所属しているキャンパスに、どのようにDiversity(多様性)を持ち込めるか、また、その意識を高められるか、その方法を具体的に提示し、実現するために半年から1年かけてFellow(研究員)として働き、その代わりに一定の授業料が免除されるものだ。例えば歴史専攻のアメリカ人受賞者はBrockportでDiversityをキーワードにした学術学会を主催したり、ダンス専攻のプエルトリコ人の友人は、映像やダンスを媒体にして、女性が社会で活躍していく為の議論の場を設けたり、その形は様々だった。私自身、留学生活の毎日が国際交流で、Diversityという概念が常に身近にあったため、マイノリティとして異文化交流をしている経験を生かして、大学に何か貢献できないか考えていた。ただ、2年経っても、皆の前に立って先導して何かを企画するなど、当時の私の英語力では難しいと感じていた。
そんな時、既述の、留学生活をサポートし続けてくれた大切な恩師ケビンが、日本への留学プログラムの作成を提案してきた。私の心は躍った。実現方法は分からなかったが、ケビンと一緒に、学生を日本に連れて行きたい、アメリカに居る限りマイノリティ(少数民族)と感じることは少ない学生達が、日本に来ることで自分の国の文化を別の角度から再認識できたら、又その学生と触れた日本人にも世界には色々な人がいること、価値観の違いがあることを知るきっかけになったら、との思いが強くなった。私は、何かが形になるとき、その前に鮮明なイメージ像が見えることが多いのだが、今回はケビンと一緒に学生を連れて日本を周る姿、その画が鮮明に見えた。これが見えたとき、希望や期待、そして情熱が英語力の不安などを大きく上回った。今思えば、あの時、授業を企画する準備は整っていたと思う。そしてこの授業の企画・実行はその後の私の人生の中でも大きな意味を持つこととなる。
私は、渡米からの2年間、毎日現地学生や先生、地域の人々と触れる中で新しい価値観を学び、私はどこから来たか問われ、自分と向き合う機会が多々あった。人種の坩堝と言われるアメリカで、言語、文化、階級、性差、家庭の背景、さらに価値観や考え方などの様々な違いを"きちんと認識しよう"という動きがある。私はこれまで様々な違いを"理解する"必要があるとも思っていたが、何か意見を言った際に、友人が"I recognize you, but I don't agree with you. Because....."(あなたの事認めるわ、でも同意はしない。)と笑顔で言うのを聞いて、こんなにも"違うということ"を快く感じたのは初めてだったことを覚えている。自分と異なる世界の存在を知ること、それ自体が多様性の認識の始まりだと思う。自分の価値判断をせず、感情を乗せず、まずその事象を捉えること、この相互の"認識"がお互いを尊重することに繋がるのではないか。
早速申請書作りに入った。どのようにDiversityの意識を高めていくか、具体的なイベント企画を、時系列で記載していく。また、自分がこれまで日本文化(日本舞踊や折り紙等)を学校・教育機関でシェアしてきたこと、クラスの議論の中で明らかになった文化の違い(私の大学院のクラスは10人中9人がアメリカ白人女性だった。)等々、またそれらの経験がどのように私の多様性に対する考え方に影響し、ものの見方を変えてきたかを綴った。そして多様性の認識の為には、Immersing into a culture、文化に実際に入っていく事が大切だと述べた。国に限らずどんな場所にも"文化"がある。それを学ぶ為に一番良い方法は、その場に自分の身を置くことである。今回のDiversity Fellowshipでは、日本とアメリカの異文化・国際交流を通じた多様性の認識拡大がテーマであった。Brockportでは学生の1%しか留学生がいない事は以前述べたが、Brockportが抱える短期留学先の国も多くはなかった。100以上の短期留学プログラム(授業)のうち、アジアはベトナムと中国のみで5件程だった。そこで、言語・文化・国の成り立ち等々、多くのことがアメリカと大きく異なる日本へ行く機会を提供することの意味・意義を主張し、授業の目的は、"学生が日本を直接訪れてツアーや様々なイベント参加、個々人の研究を通し、議論を重ね、多々ある日本文化のかたちやそれらのアメリカとの関係性について幅広い知識や経験を持って感謝の念を持つこと"とした。
授業の日数から滞在先まで、細かい調整が始まった。なるべく具体的であることが、強い申請書になる第一歩である。大まかなプログラム内容を決めた後、ケビン(当時Arts for Childrenの学科長)とラルフ(International Studiesの学科長)とも話し合い、2人に推薦書をお願いした。授業のタイトルは"The Arts and Culture of Japan"とした。対象は日本に興味がある全ての学生だったため、なるべく偏りがないように日本の伝統文化(茶道・華道・歌舞伎・日本の古代音楽)から現代(モダン、ポップ)文化(原宿訪問など)まで幅広く含め、広義に受け取れるタイトルにした。最初は、日本の大学と連携して日本語を学ぶ時間を作ることも考えた。しかし、最終的には "人に会う"機会を中心にする目的で、旅行会社や大学等が一切関わらない、日本現地のボランティアを中心に構成された手作りの内容となった。人と会うことに重点を置いた理由は、私が海外旅行や留学生活の中で心に残った異文化交流の多くは、現地の人を媒体としていたからである。
1年目は23日間で、東京、京都、宮城・仙台&南三陸町を周り、2年目は1年目の旅程を2日伸ばし、広島を加えた。大変有難いことに、2012年、2013年と2年間で関わってくださったボランティアの方々はのべ、200人近くに上る。1年目は、国の重要無形文化財であり浄瑠璃(日本の古典音楽)の源流である一中節、十二世家元の都一中先生に邦楽(浄瑠璃三味線)のワークショップを、2年目は、同じく邦楽を勉強されている常磐津の武藤理代さんと清元の逆井幸江さんに三味線や日本舞踊の指導をしていただいた。日本橋・小金井・諏訪などを拠点とし、自分の好きなもの・こと・ひと・ばしょをつなげる活動「mikibar」を開催している林美貴さんには、2年連続で解説付きの築地案内と、日本食を通した文化交流"Cultural Food Party"を企画していただき、華道家の高山衛子先生には、2年とも草月流の生け花を丁寧に教えていただいた。また、2年目は、民主党の岡田克也代表が国会議事堂の英語ツアーをアレンジして下さり、加えて生徒との面談の時間も作ってくださった。宮城・仙台では2年連続でボランティア団体「地球の子ども通信」がホームステイプログラムを引き受けてくださり、ボランティアも兼ねてお邪魔した南三陸町では、廃校になった小学校を改造した民宿、さんさん館に泊まり、地域の人々と交流した。また1年目は、東日本大震災の津波を経験した英語教師のRob Lehneさんが、これまで撮影してきた様々な写真を交えつつご自身の経験をお話してくださった。京都は1年目、株式会社Sunny Internationalの代表取締役山下千帆さんに京都近郊散策のアレンジをお願いし、浴衣の着付けと購入では、京都大手呉服屋さんの西善商事にお世話になった。2年目の広島訪問では、ワールドフレンドシップセンターに宿泊し、ヒバクシャの語り部をはじめ、ボランティアの方々にお世話になった。東京、京都は2年連続で、東京:国立オリンピック記念青少年記念センター、京都:ゲストハウス金太に宿泊した。また、Brockportに留学していた日本人で現在は日本で活躍している卒業生と、現役学生との交流の場を設けた。また、東京大学のキャンパスツアーに参加して日本の大学生との交流の場も設けた。
申請から数ヵ月後、2012年度のDiversity Fellowship受賞の知らせを受け取った。それから猛スピードで、プログラム周知のための広告作り、旅程組みから宿泊場所予約、日本にいるボランティアの方々との連絡等々、一からの授業作りが始まった。自身の大学での学びと並行して、夜はスカイプで日本と電話連絡をしたりインターネットでリサーチをしたり・・少しずつ形になっていく感覚が楽しくて仕方なかった。そしていよいよ1年目の2013年の夏、学生が5人集まり決行となる。